2014年11月29日

キタキタ妄想話カッパ編

*はしがき*
 ここに公開いたします物語は、「覆面作家企画6」に提出された短編小説「キタキタ」(B12/作・石井鶫子さん@ショボ〜ン書房)を拝読した私(アヤキリュウ/桐生愛子)が、同作の舞台背景を勝手に妄想した挙げ句、個人的な趣味を寄せ集めて好き放題に練り上げた物語です。
 本作は、このような特殊な経緯で作られておりますゆえ、以下の注意書きを御一読いただいた上でお楽しみいただけますと幸いです。

※ 本作の怪異に関する設定の一部は、「キタキタ」の設定によっていますが、私の勝手な解釈により歪められた部分が多数ございます。
※ 本作は、その執筆経緯及び物語構成上、「キタキタ」のネタバレを含みます。ぜひ、石井さんによる「キタキタ」を読了の上でお楽しみください。なお、「キタキタ」は、私のふざけた妄想話とは全く異なる、大変雰囲気のある怪談です。
※ 本作がそれなりに面白い物語になったとしたら、それは「キタキタ」を書かれた石井鶫子さんのアイディアのおかげであり、一方、本作がいまいち面白くないものになったとしたら、それは私のくだらない妄想と未熟な文章力のせいです。
※ 本作があなたの「キタキタ」に対するイメージを崩壊させたとしても、私は責任を取れません。自己責任でお読みください。
※ 本作は、妄想の勢いに任せて、スマホで執筆されました。普段以上に甘い推敲しかしておりませんので、多少の矛盾は御容赦ください。御指摘いただければ直すかもしれませんが、直さないかもしれません。
※ 本作は、その執筆前に、『ゴーストハント』(小野不由美)を読んでいたことの影響を受けております。要はそういう系の話が書きたかった…のですが、まぁあれです、生暖かい目で御覧ください。
※ 「キタキタ」は企画の規定上、6000字以内で書かれておりますが、本作執筆に当たっては、何ら文章量の制約が存在しなかったので、1万字を超えました。…いえ、正確には、一万五千字を超え、16,374文字です。覚悟してください。

それでは、どうぞ。

◆◆◆

『河童と捨てられた村』

▼**村でまた火災――秩父日報(平成九年十一月二十九日朝刊)。
 二十八日夜十時頃、埼玉県**村の住宅で火災が発生した。村の消防団によって火は未明に鎮火されたが、この火事で出火元の住宅一棟が全焼し、焼け跡から女性の遺体が発見された。火災後、この家に住む主婦・竹田貴子さん(四二)と連絡が付かなくなっており、遺体は竹田さんとみられ、現在、警察で身元の確認が進められている。
 火災の原因については、現場に灯油を撒いた痕跡があることから、事件の可能性もあると見て、警察は慎重に捜査を進めている。
 **村では、十九日にも公民館で火災が発生しており、焼け跡から田辺恭子さん(四一)の遺体が発見されている。この現場にも灯油の撒かれた痕跡があり、一旦は自殺として処理されたが、今回の事件を受けて連続放火事件の可能性もあるのではないかと関係者の中からは再捜査を求める声も上がっている。
 村に住む男性によると、今月四日に、田辺さんの小学生の長男が公民館裏にある古井戸に転落して亡くなっており、以来、田辺さんはとても落ち込んだ様子だったという。また、竹田さんは田辺さんと幼馴染みで家族ぐるみの付き合いがあり、二人は姉妹のように仲が良かったとのことである。田辺さんの長男の死後、竹田さんは落ち込んだ様子の田辺さんをとても心配し、田辺さんの自殺後は大変ショックを受けた様子だったという。

▼**村連続火災事件は自殺と判断 河童の祟りという噂も――秩父日報(平成九年十二月二日夕刊)。
 先月二十九日に**村で起こった火災について、***署は、二十九日の火災で犠牲となった)竹田貴子さん(四二)が焼身自殺を図ったものと判断して捜査を打ち切った。
 **村では、前月十九日に発生した公民館の火災で田辺恭子さん(四一が死亡しており、連続放火事件の疑いも浮上していたが、一日、***署は共に自殺と結論付けたと発表した。
 しかし、田辺さんの自殺の動機とされている同月四日の長男の事故死について、**村では、当初より河童の仕業と噂されており、二人の死も河童の祟りではないかと不安視する声が高まっている。

▼止まらぬ悲劇 **村連続焼身自殺事件――秩父日報(平成十年一月二十六日朝刊)
 **村で、昨年十一月以降五件目となる火災が発生した。
 火災の原因は、いずれも被害者が灯油を撒いて焼身自殺を図ったものと警察は結論づけたが、度重なる不幸に、村では祟りや呪いを疑う声が絶えない。
 **村では、これら村民の不安の声を受け、村として今般の火災による犠牲者の合同慰霊祭を行うとともに、**神社の神主に協力を得て、呪い祓うための儀式を行うことを検討している。
 〈集団心理に詳しい**大学人文学部心理学科・阪口誠教授の話〉集団内で祟りや呪いに対する不安が増幅し、これによって神経症を発症した者が衝動的に自殺を図った可能性が高い。全村民に対するカウンセリングを至急行うべきだ。

▼**村廃村へ 河童の祟りを恐れる村人、移住を決意――秩父日報(平成十年七月十四日夕刊)
 昨年十一月以降、立て続けに焼身自殺事件が起こっていた**村が、廃村を決定した。村の消滅は、従来より検討されていた隣接する**市との合併計画によって決まっていたが、村民は、合併と同時に、**市郊外の住宅地へ集団で移住することを決めた。
 昨年十一月以降の八件の焼身自殺事件について、村内では河童の祟りを疑う声が強く、これまでに延焼による犠牲者を含めて十一人の村民が亡くなっている。
 村では祈祷や様々な儀式を行ったが犠牲は止まず、村の土地に留まる限り犠牲は止まないのではないかという考えが多勢となっていた。
 村では、一連の事件の始まりと考えられている田辺恭子さんの長男の恭介君が古井戸に転落死した事故からちょうど一年を迎える十一月四日に合同慰霊祭を行った後、村内への立ち入りを禁止する予定である。

◇◇◇

「それで、この呪いの河童は、今もこの廃村にいるんですか? この村、河童がいそうな水辺すら見当たりませんけど。」
 僕は先生から手渡された新聞記事のコピーを読み終えると、周囲の寂れた廃村の景色を眺め回しながら尋ねた。
「残念ながら、いないだろうね。」
 柔らかな先生の声は予想外の答えを返し、僕は思わず「はぁ!?」と苛立った声を上げて聞き返してしまった。
 何しろ、天気もいいし、面白い河童伝説があるからフィールドワークに行こうと急に誘って来たのは先生の方なのだ。
「僕たち、河童を探しに来たんじゃないんですか?」
 僕はコホンと咳払いしてから、改めて丁寧に先生に問い掛けた。
 威厳もへったくれもない気さくな先生だが、彼は博士号を有する新進気鋭の民俗学者であり、都内のさほど有名ではない私立大学の大学院生である僕の指導教授なのだ。二人だけの研究室で兄弟のような付き合いをしているが、親しい仲にも礼儀ありということを忘れてはいけない。何しろ、彼に見捨てられると僕はこの社会において行き場を失くす。
 文学部卒、しかも民俗学専攻などという実生活に役立たないどころか極めて怪しげな学問を専門にして来た人間では、この御時世、今更真っ当な就職口を見つけることは困難だ。そもそも僕が大学院に進学したこと自体、まともな企業へのまともな就職に失敗した結果でしかない。
「河童伝説があるとは言ったけど、河童がいると言った記憶はないな。」
 先生は顎に片手を添えながら真面目な顔をする。
 確かに、先生から明確に河童がいると言われたわけではない。ただ、先生の場合、河童伝説があるから調査に行く、と言えば、それは即ち河童を探しに行くということを意味するのが普通だった。
 こう言うと、先生をオカルトマニアだと思う人もいるかもしれないが、そうではない。彼は「視える」人だ。河童に限らず、妖怪だとか幽霊だとか、はたまた精霊だとか言うものが、彼にはごく当たり前に見えている……らしい。
 らしいと言うのは、僕が全く視えない人間であり、本当に先生に視えているのかを確認しようもないからである。にもかかわらず、彼の「視える」を真に受けていることに疑問を持つ人もいるかもしれないが、僕がこういう超自然的な現象に関する話を特段の違和感なく受け入れているのは、今は亡き曽祖母の影響に他ならない。彼女もまた「視える」人だった。
 僕は幼い頃から、彼女が実際に見聞きし、体験した不思議な話をいくつも聞かされて育った。他の家族は、彼女の話を老人の戯言としか受け止めていなかったようだが、僕には彼女が嘘を吐いているようには思えなかったし、彼女の話は僕にとってとても刺激的で、漫画やアニメなんかよりもずっと面白かった。
 もっとも、僕が中学に上がる前に彼女は亡くなり、中学や高校に僕のような超自然的なものの存在を本気で信じている仲間はいなかった。僕は空気を読み、彼女から聞いた話を他人に積極的に話すことを慎んだ。
 だから、高校三年生の時に、テレビで彼を見た時には驚いた。僕の曽祖母と同じ話を同じように、幽霊や妖怪の存在を厳然たる事実として大真面目に語る若き天才の姿を見た時、僕は内定していた学内推薦を断って、彼の研究室がある大学へ進学することを決めたのだ。
 今、先生はかつてのように立て続けにあちこちのテレビ番組に出演するようなことはなくなった。飽きられたんでしょ、と彼は言い、仕事が減ったことを全く気にしていない。元々、彼にとってテレビ番組への出演や雑誌の取材は、情報を集めるためのきっかけに過ぎなかったからだ。テレビの視聴者や雑誌の読者が、先生の存在を知り、自分の村ではこんなことがある、と面白い情報を寄せてくれれば儲けものということだったらしい。功名心なんて微塵もない。むしろ、彼は目立つことが嫌いだ。
 これと言った情報が寄せられなければ、自ら歩いて情報を取りに行けばいいと先生は言う。事実、先生は年中あちこちを旅行したり、図書館に引きこもったりしている。
 今回の調査のきっかけも、三日前まで風邪をこじらせて寝込んでいた先生が、その反動で張り切って一週間ぶりにとある図書館に篭って漁っていた古い新聞記事に端を発している。
「河童がいないなら、わざわざ調査に来た意味ありませんよね?」
 僕はため息を吐いて尋ねた。
「そんなことはない。河童がいないとしても、別のものはいるよ……たぶん、ね。」
 お人好しが過ぎてもはや間抜けとしか言いようのない、この気鋭の民俗学者は、彼の希望に反して目立ち過ぎる綺麗な顔を妖しく歪めた。
 同時に、頬を冷たい粒が打った。
 見上げれば、麓の駐車場に着いた時には澄み渡っていた空が、いつの間にか灰色を濃くしている。本当に、山の天気は変わりやすい。
 ――ポツン、ポツン。
 僕が地面に模様を描き始めた雨粒を確認していると、隣の先生も空を仰いで呟いた。
「……来たね。」
 嬉しそうな笑みを湛える先生の顔を見て、僕は頭上に手をかざす。
「あそこでちょっと雨宿りしましょう。また風邪を引きますよ。」
 僕は前方に見えた元公民館らしき建物を指差し、小走りに駆け出した。
 「また」と言うのは、前回の調査で僕らはいたずら好きの水妖達の歓迎を受けて全身びしょ濡れになり、その後、先生が高熱を出して一週間寝込んだことを踏まえてのものだ。
 この時、都内のマンションで一人暮らしをしている変わり者の独身教授を訪ねて看病に当たったのは、彼の唯一の弟子である僕に他ならない。あんなことはもう二度と御免だ。
 単に病人に食糧を運び込むだけで済めばどうということはなかったのだが、僕は病に伏した先生に代わって、先生の見えないお友達の世話までしなければならなかった。これがとにかく大変だった。何しろ先生と違い、僕には彼らの姿が全く視えなかったのだから――。
 公民館の軒下に入り込んで、僕はため息を吐きながら、益々色を濃くしていく空を見上げた。既に雨は本降りになっている。これはしばらく止みそうにない。
「遠野君は、全然見えないのに勘だけはいいねぇ。」
 僕の隣で濡れた前髪の滴を払いながら、先生が笑った。ああ、これは……良くないパターンだ。
「屋根のある場所は他にもあるのに。」
 言われて、僕は雨の向こうに広がる寂れた廃村の景色を睨んだ。簡素な門構えと、半分壊れた生け垣。古めかしい民家が公民館の前に点在している。
 僕たちが雨に気付いた場所は、そんな民家の一つの門前だったのだが、僕は公民館の軒下を雨宿りの場所に選んだ。廃村の無人の家とは言え、他人の家に勝手に入り込むことには抵抗があったからだ。
 民家の脇を曲がれば小さな神社もあったのだが、そういうところはいかにも出そうではないか。
 ただ、先生がこう言うということは、僕はいつもどおり判断を誤ったのだろう。
 基本的に、僕には霊感と呼ばれるものがなく、幽霊や妖怪の類を視ることはできない。ただ、僕は恐ろしく“勘が悪い”ので、普通の人なら無意識にも回避しそうなほど怪しい場所に不用意に近付いてしまうのだ。これまでの調査でも、先生が「遠野在る所怪異有り」などという迷言を吐くほどに、度々危険な地雷を踏んでいる。先生と一緒でなければ、とっくに命を絶たれていただろう。
「キタ……。」
 背後から、声がした。隣の先生を見ると、嬉しそうにこちらを向いて笑みを見せる。
 何度も言うが、僕は視える人間ではなく、霊感はない。霊の声なんてものも聞こえない。
 ただ、人に害なす存在は往々にして強い力を持ち、人に影響を与えようという意思を有するがゆえに霊感がない人間にも自らの姿を見せることができるらしい。このことは、あちこちにある幽霊の目撃談の多くが霊能者ではない一般人によって報告されていることと整合する。
 だからつまりこれは――ピンチである。
「キタキタキタキタキタ……!」
 蛙の鳴くようなしゃがれた笑い声に、僕は跳ねるように振り返った。ガラス戸越しに公民館の中に目を凝らすと、不気味な黒い塊が蠢いている。
 僕はぎょっとして思わず身を引いたが、代わりに先生が踏み出した。
「やあ、遠野君のおかげで早々に出会えたようだ。」
 先生は動じることも躊躇うこともなく、公民館の玄関扉に手を掛ける。鍵は掛かっていなかったようで、扉は難なく横に開いた。
「ちょっとお邪魔しますよ、こんにちは。」
 先生はこの上なく場違いな台詞を明るく吐いて、公民館に足を踏み入れる。
 僕はすぐにでも逃げ出したいのだが、背後には土砂降りの雨。山の麓の駐車場に止めた車まで独り走って行く勇気もなくて、僕は拳を握って踏みとどまった。
 先生の後に続いて、僕も恐る恐る公民館に入る。同時に、強い腐臭が鼻を突いた。
 生活排水が流れ込む淀んだどぶ川の臭い、だ。僕は思わず鼻を押さえ、顔をしかめた。
 部屋の奥で、黒いものは相変わらずどろどろと蠢いている。
「来た来た来た!」
 黒い物が蛙のような声で歌う。先生は躊躇わずにそれに近づく。それが飛び掛かって来るような気配はないが、あまりにも不用心だ。いつものことだけに、もはや注意する気にもならないが、僕がここに導かれたのなら、目の前のこれは、たぶん、ろくでもないものだ。
 いや、この見た目からして、可愛い森の精とかいった類のものでないことは明らかだ。どろどろとしたヘドロのようなもので全身を覆われた何か。――大きさは小学生くらいの子供のようだが、手足のように四方へ伸ばされたものは黒いヘドロを滴らせ、あまりにも異様だ。
「先生、これは……?」
 僕はむせ返るほどの臭気に耐えながら、先生に声を掛けた。
「可哀想な河童の成れの果て。」
 先生は僕に背を向けたまま答えた。
「河童? これが……?」
 僕は先生の肩越しに眉をひそめた。
 僕が知っている河童は、緑色の体に亀のような甲羅を背負い、頭の上に水を貯めるお皿を載せたキュウリを好物にしている子供のような水棲生物だ。こんな真っ黒なヘドロに覆われた禍々しいものではない。
「今はもう河童とは呼べないかもしれないね。ただ、かつては確かに河童だったものだ。村の子供達と遊ぶのを楽しみにしていた、ただのいたずら好きな子河童だよ。でも、今は違う。子供達と遊べなくなって、帰るべき水源も失った……悪しきものに囚われて変容した……だから、成れの果て。」
 先生は寂しげに呟いた。
「何で……。」
「ずっと独りで待っていたらしい。子供達がいなくなっても、なお思い出の場所に留まって、かつての友達が戻って来るのを待っていたんだろう。でも、もう彼の友達は戻って来ない。孤独の中で待つうちに、周りの雑念を取り込んで異形と化したんだ。」
 先生はそれの前に跪き、そっと手を伸ばした。
「先生!」
 僕は慌てて制止の声を上げたが、先生は振り向くことなくゆっくりと片手を上げて逆に僕を制した。
「来た来た来た!」
 黒い異形が不気味な声を上げる。
「大丈夫だよ。僕たちを友達が戻って来たんだと思って喜んでいるんだ。」
 先生は異形の頭――と思われる部分を撫でながら、穏やかな声で言った。
 僕は気が気ではなかった。僕には自覚的な霊感は全くないが、それでもこれが気持ちの悪いものであることは、はっきりと分かる。これは明らかに不気味で、忌々しくて、とても……危険だ。胸の奥がざわめいて、落ち着かない。
 これと関われば、僕らも連れて行かれてしまう。孤独に包まれた異形のものは、仲間を増やそうと次々と子供たちをその棲家へと引き摺り込んで行くのだ。
 そんなことを、許してはいけない――。
 胸騒ぎは次第に大きくなっていく。両手のひらが汗ばんでくる。
 僕はこれまで先生について色々な超自然的な存在を見てきた――僕は基本的に視えない人間だが、自己顕示欲の強い悪しきものは特段霊感がない人間にも見えてしまうことが少なくない――が、これは特に良くないものだと感じる。
 これをこのまま放置してはおけない。不浄の存在は、綺麗に消し去らなくては――。
 僕はポケットから百円ライターを取り出して握り締めた。
 僕は煙草を吸わないどころか嫌煙家でさえあるが、ライターは常日頃持ち歩いている。炎は悪しきものを浄化する作用を持つと、以前、先生に教わったからだ。
 本格的なお祓いが出来なくても、大概の霊はそれが取り付いている媒体を燃やして完全に焼失せしめれば浄化できるらしい。もちろん、普通は、家に悪霊が憑いているからと言って家ごと燃やすというわけにはいかないのだが、ここは廃村の半分朽ちた公民館だ。頭の固い役人連中に叱られる可能性はあれど、燃やして誰が困るでもない。
 だから――。
「先生、早く燃やしてしまいましょう。この公民館ごと、忌々しいそいつを……。」
 僕はそっと先生の背後に歩み寄り、腰を屈めて愛想よく黒い塊に話しかけている先生の肩を掴んだ。先生は不満そうな顔で僕を振り返る。
「先生、早く……。こいつは危険です。早く燃やさないと……燃やして殺さないと……。全部、消し去らないと……!」
 僕の腕は震えていた。腕だけではなく、全身が。寒気がするのは、雨に濡れたからだけではないだろう。
「……なるほどね。確かにこれはちょっと厄介だ。」
 先生は、緩慢な動作で背を伸ばし、憐れむような目で僕を見下ろした。
「先生……!」
 僕は先生を急かした。先生の落ち着いた様子が決してはったりや無知から来るものでないことは知っている。それでも、僕にはアレを燃やさずにいることが一秒足りとも我慢ならなかった。
「大丈夫だから、ここは僕に任せて。ちゃんと清めてあげるよ。」
 先生はいつも通りの余裕の笑みを見せて笑う。
「だから遠野君、少しだけ……ごめんね。」
 謎の謝罪の言葉と同時に、先生の表情がすっと真剣なものに変わった。そして次の瞬間、僕はみぞおちに衝撃を感じ、先生の言葉の意味を理解する間もなく意識を失った。

 僕が意識を取り戻したのは、見覚えのある車の中だった。
「……ん……?」
「ああ、気が付いた? 気分はどう?」
 僕が窓に持たせていた頭を上げると、前方から先生の呑気な声が聞こえた。
「先生……? 僕は……。」
 ぼんやりと重い頭を起こしながら、僕は朧げな記憶を辿り始める。
 先生がバックミラーの中でいつもの笑みを浮かべているのを見て、僕はハッとした。
「そうだ、先生! あいつは!? あの不気味な化け物は!?」
 運転席のシートに飛び付くようにして、僕は先生に尋ねた。
「清めたよ、ちゃんと。正しいやり方でね。」
 先生はハンドルを握ったまま前方を見据えて答える。
 「正しいやり方」というのは即ち、僕が採ろうとしたただ燃やすだけの方法ではなく、きちんと訓練を受けた術者による格式ある浄化の儀式のことだ。いわゆる霊能者が行うそれを、かの有名な陰陽師の遠縁に当たるらしい先生は主宰することができた。もっとも、それが具体的にどのような方法で行われるのか、僕は知らない。
 先生、頻繁にテレビ番組に出演していた頃から、由緒正しい秘儀を安易に人目に触れさせて人々の好奇心の対象としたくないという意向を有しており、助手として先生に同行していた僕は、しばしばそのための人払いという大役を仰せつかって、間近で儀式を見ることはなかったからからだ。
 もちろん、普通の人には考えられないような地雷を踏んでしまう僕を近づけてうっかりで大事な儀式をぶち壊されたくないとは当然先生も思っただろうし、先生が悪しきものと対峙する場でその悪しきものの禍々しい姿を直に目にしたいと積極的に思うほど僕は怖いもの好きではなかった。
 曽祖母が幼い僕に話してくれたのは、決して恐ろしい怪談話などではなく、可愛いいたずら好きの妖怪や精霊達との戯れの思い出だった。
「安心した?」
 バックミラーに映った先生の顔が急に茶目っ気のある表情に変わり、なぜだかいつも以上に深刻になっていた僕は拍子抜けしたような気持ちでバックシートに腰を下ろした。
「……ええ、まあ。」
「それで? 君の方は大丈夫? あれを燃やし尽くさなきゃという強迫観念はもう消えたかい?」
 先生が笑いながら尋ねて来る。
「それはまあ、ちゃんと清めてくださったとおっしゃるなら……。」
 僕はどこか釈然としない気持ちで答えた。この奇妙なモヤモヤ感は、肝心の解決シーンに立ち会い損ねた不満に起因しているのだろうか。何か、すっきりとしない。
「……あの、先生? あの時、僕の身には一体何が起こっていたんですか?」
 僕は勇気を出してバックミラー越しに先生に尋ねた。
「……知りたい?」
 先生がにやりと笑って思わせぶりな回答を返す。
「そりゃ、知りたいですよ。みぞおち、まだちょっと痛いですし。風邪をこじらせてぶっ倒れた先生を親身に看病した心優しい助手をいきなり殴り倒した理由くらいは、きちんとお聞きしておきたいかと。」
 僕が言うと、先生がけらけらと笑った。
「……確かにそうだ。でもまあ、たぶん、君自身が想像しているとおりじゃないかな。」
 そう言って先生は一呼吸置き、静かに口を開いた。
「……憑かれてたんだよ、遠野君は。」
 囁くような声で、先生は言った。先生が言ったとおり、その答え自体は僕にとって何ら驚くべきものではなかった。
「……あの不気味な河童の成れの果てに、ですか?」
 僕が問うと、先生はクスッと笑った。先生は時々、妙にもったいぶった話し方をする。それも、助手である僕に対してだけ。研究者同士の会合やメディアの取材では、先生の言動はこれ以上ないくらいに明快だ。
「それとは違うもの。もっと禍々しいもの。」
「説明してください。」
 僕が些か苛立ちながら尋ねると、先生はシフトレバーを引いた。通行量に比して無駄に綺麗な舗装がされている田舎道を通り抜けた車は、ETCゲートを通って高速道路に乗った。
「順を追って話そうか。まずは、あれが何かってところからかな。」
 そう言って先生が語り始めた真実は、あの公民館で感じた臭気と同じくらい、胸くそ悪い話だった。

 先生によると、公民館にいた黒い塊は、かつては何の悪意もないただの子河童だった。村に迷い込んだ河童は村の子供達に見つかり、大人には内緒の秘密の友達として子供達の間で人気者になった。河童は毎日のように子供達と遊んで楽しく過ごしていたらしい。
「でも、あの村に水辺はありませんでしたよ。河童って綺麗な川に住むんでしょう?」
 僕は口を挟んだ。
「確かに、村に川や沼はなかったね。でも、あの公民館の裏には井戸があったよ。この辺りは地下水脈が何本も通ってる。好奇心旺盛な河童の子は、それを通って村の井戸にたどり着いたんだろう。」
 僕はその井戸を見てはいない。でも、公民館であれと対峙した時、あれによって引き摺り込まれるのではないかと疑った時、脳裏にあったのは井戸なのような深い穴だった。あれが、河童の棲家――。
 ぞくりとした悪寒が何に由来しているのか判然としなかったが、僕は無意識のうちに両腕で自分の身体を抱きしめていた。
「続けるよ。」
 そう言って先生は再び淡々と口を開いた。
 河童は子供達と上手くやっていた。ところがある時、子供の一人が遊びの最中に不注意から井戸に落ちて亡くなった。
 事故の経緯を知りたい大人達は一緒に遊んでいた子供達を問い詰め、何人かが河童と遊んでいたと白状した。
 亡くなった子供が井戸に転落した原因に、河童は直接的に関与してはいない。隠れんぼの最中に鬼役のこどもが井戸の中を覗き込み、頭から井戸に落ちた、それだけだ。
 でも、大人達はそれだけだとは思わなかった。子供が河童に井戸の中へ引き摺り込まれたと考えた。
「確かに、河童が川遊びの子供達を川底へ引き摺り込んで溺れさせるという伝承は各地にありますしね。水難事故を防ぐために、河童がいるから川には近付くなと教えていたのが似たような河童譚が全国に広まった最大の理由というのは、ほぼ定説化していますし。」
「うん。中には河童の正体は川原にさらされた水子とだという説もある。そこから転じて、河童は具現化した水子の魂で、この世の楽しみを味わうことなく逝った子の未練が、子供達と戯れ、一緒にあの世へ連れていこうとするのだなんてもっともらしく言う連中もいるくらいにね。まあ、そもそも水子の祟りなんて話は、七十年代以降、急増した人工妊娠中絶で思い悩む女性をカモに荒稼ぎを狙った詐欺師どもが作り出した新しい話だけれどね。」
 先生はふんっと鼻を鳴らした。河童水子説は、先日学会で会ったいかにも先生とは相性の悪そうな、研究者とは名ばかりの女性タレントが唱えている説だ。かつての水子供養ブームはとっくに下火になっているが、やはりブームの過ぎた女性タレントの御著書には、今も堂々とこの説が載っていることを学会後の懇親会で頂戴した御著書で確認した。もちろん、目次しか見てはいないが。
 先生は視える人だが、この手の能力を謳って金を稼ぐ連中が大嫌いだ。まあ、正直なところ、僕も苦手とする人々ではあるが、お人好しの先生にしては、彼らに対する手厳しさは徹底している。よく分かりもしないことを分かったように断じる口調が耐え難いと言うのだが、視えない僕からすれば、視える先生が霊から聞いた話を語るのだって同じようなものだ。もっとも、僕がそう言うと、先生はいつも、自分はその話でもって他人の人生を左右しようと試みたことはない、と反論するのだが。
 確かに先生は自分が見たことや聞いたことを衒うことなく事実として語るが、だからどうしろと言われたことはない。話を信じる信じないは個人の自由で、先祖の霊が寂しがっているからと言って、供養してやれとも言わない。
 対処に困った調査対象者から問われて初めて、供養したいならお寺でも神社でも行ってみれば良いんじゃないですか、と口にするのがせいぜいだ。
 先生は霊能者たる能力を有しながら、霊能者としては活動しない。お祓いをすることは滅多になく、調査の邪魔になるものを渋々追い払っているだけだ。
 今回だって、僕の件がなければ、先生はあれを放置しただろう。あわよくば、あの不気味な河童の成れの果てでさえ、研究素材を兼ねたお友達として自宅へ連れ帰ろうとしたかもしれない。先生の家には、既にそういうお友達が何人も――何匹も?――いる。僕が先生の看病に付随する業務によって大変な消耗を強いられたのは、全てこの先生の悪趣味のためである。
「あの河童は、そういう性質のものではなかったんですか?」
「分からない。でも、あの河童には子供達をどこかへ連れて行こうという意思はなかった。ただ一緒に遊びたかっただけだ。力の弱い子河童だったから……。」
 先生の声が沈んだ。
 力の弱い子河童には、子供達をあの世へ連れ去るような力なかった。それどころか、元いた場所へ帰ることさえ出来ないほど幼い子河童だったのだ。子供達との遊びに満足すれば、きっと自然と消えただろう。超自然的なものの存在は、思いの外儚いのだと先生はよく語っていた。
「その子河童がどうしてあんな化け物に変わったんです?」
 僕は先生に話の続きを促した。
「子供の死を河童の仕業だと思い込んだ大人達が、河童の棲家を汚したから……。」
「汚した?」
「そう。憎悪でもって汚した。そして、その小さな淀みに色々なものが集まった……。」
 先生の声が、深く深く、沈み込んだ――。

 河童が子供を連れて行った、放置すれば他の子供達も皆、河童にあの世へと連れ去られるに違いない――そう考えた大人達は、河童を殺そうと企てた。悪しきものを葬るため、穢れを祓うため、大人達は原始的な方法を取った。
 炎による浄化――。
 特に河童は頭の上のお皿が乾くと動けなくなると言われているから、火責めにすることは有効だろうと考えられた。
 大人達は河童をいつも子供達が集まっていた公民館に誘き寄せ、油を撒いて火を放った。
 だが、気化した油に火が移り、炎は思いの外早く回り、火を放った大人を取り囲んで焼き焦がした。
「……自業自得ですよね。何の罪もない河童に濡れ衣を着せて殺そうとしたんですから。」
 僕はやり切れない思いで呟いた。
「確かにね。でも、火を放った親に悪意なんてない。ただ我が子可愛さにしたことだ。我が子を苦しめた諸悪の根源を断ち、他の子供達が同じような犠牲になることのないように……純粋な愛情と正義感だった。」
「でも……。」
 僕が不満げに口を挟むと、先生は僕の言葉を遮って続けた。
「でも、その目的は達せられなかった。河童は元よりこの世の命ならぬもの、単純に焼き殺すことなどできない。炎で体がただれても、核はそのまま残された。そもそも河童は水を司るものとも言われている。火で水に勝てるはずがない。焚き火は雨に晒されれば簡単に消えてしまう。河童は水に護られてる。」
「もしかして、あの雨も……?」
 僕は天気予報に反して急に降り出した雨を思い出しながら尋ねた。
「うん、河童はみんなが燃えてしまうと大変だと思って降らせたらしい。もっとも、今日のあれについて言えば、僕らは幻覚を見せられていただけだろうけれど。」
 先生の話のとおりなら、あの河童の成れの果ては、とても心優しい生き物だったのだろう。
 窓の外を見上げれば、胸の空くような青空が広がっている。どしゃ降りの痕跡はどこにもない。胸が……痛い。
「その幻覚は、河童が僕達に見せていたものですか?」
「河童自身は違うと言っていた。事実、違うのだろうね。あそこには、色々と溜まっていたから……。」
「色々って?」
「河童の孤独に引き寄せられたもの、大人達の憎悪に引き寄せられたもの、偶然通りかかって淀みから抜け出せなくなったもの……そして、救いを求めていたもの。」
 先生は静かに言う。
 救いを求めるものの存在――それ自体が救いのような気がした。先生はこういう考えを嫌うだろうが、僕達があの場所を訪れたのは、その救いに呼ばれたからかもしれない。
 先生は、祟りや呪いは元より、守護霊の加護や御利益といった一見良さそうなものも含めて、超自然的な存在が人に干渉することを喜ばないし、それを求めるような人々には批判的だ。良いものとか悪いものとかいう区別は結局人間の側の価値判断に過ぎず、超自然的な存在を人間社会の枠組みの中で理解しようとすること自体が気に入らないらしい。
 先生の民俗学は、超自然的な存在を含むものが、人間社会においてどのように解釈され、伝播して行ったかに関心を置いている。先生の研究対象はあくまでも人間、その心の動きにある。
 視えている先生にとって、超自然的なものの存在は疑いようのない事実であり、研究の必要を感じることもない当然の前提だ。それを人々――主に霊感のない視えない人々はどう感じ、どう理解しているのか。それが、研究者として、先生の立てた問いである。
「いずれにしても、あの場所には、巻き込まれただけの第三者が大勢いた。それが淀みを作っていた。でも、彼らは悲劇の結果に過ぎない。原因じゃない。」
 先生はそこで言葉を切った。
 ――原因は何か。
 答えは尋ねるまでもない。
「それが、僕に憑いていたものですね。」
「そう。彼らは河童を殺そうとしたもののその目的を果たせずに死んだ。それでは彼らの気は晴れない。だから、彼らの魂もまた、この世に留まった……最悪の形で。」
 先生は端的に答える。
 つまり、全ての発端は、我が子の仇を取ることも叶わず、自ら放った炎に焼かれた者――河童に我が子を殺されたと思い込んだ母親だ。河童への復讐を果たせなかった彼女の魂は、憎悪と嫌悪の塊としてこの世に残り、手近な者に取り憑いて目的を果たそうと試みた。しかし、業に囚われた試みは必然的に次々と失敗して新たな犠牲者を作り出した。それが、あの村の連続焼身自殺事件の顛末なのだろう。
 即ち、僕が河童の成れの果てに対して抱いた嫌悪は、本来、僕の感情ではない。僕に取り憑いた連中によって、僕はあれに対する嫌悪を駆り立てられていたのだ。自分が何をしようとしていたかを思うとぞっとする。
「そういうわけで、遠野君には少しだけ眠って貰った。奴らに支配されたまま本気で火を放たれたら、ちょっとシャレにならないからね。」
「いきなり殴って気絶させる以外に、もう少しマシな方法はなかったんですか?」
 僕はバックミラーの先生を恨めしげに睨みながら言った。
「ないこともなかったけど、面倒だった。とりあえず、感情的に憑依できる実体がなければ、奴らは何も出来ないはずだから、眠ってさえいてくれればいいと思ってね。一番簡便な手段を取ったんだ。」
 先生は正直だ。思いやりもへったくれもない。
「何だか、胸が痛みます。」
 僕はみぞおちを押さえながらバックミラーの先生に恨み言を言った。
「そう? 僕は少し腰が痛いな。あの山道を、気絶したままの君を背負って麓の駐車場まで下りて来たんだ。病み上がりの身には、本当に大変な重労働だった。」
 僕の嫌味を華麗にスルーした先生は、大袈裟にため息を吐いた。特段体格が良いわけでもないが小柄でもない僕を背負って山道を下ることが、どちらかと言えば華奢な体型の先生にとって、どれほど大変だったかは想像に難くない。
 とは言え……。
「自業自得です。あのまま僕が意識を取り戻さなかったらどうするつもりだったんです?」
 先生が僕を殴り倒した後、あの場所を清め、僕を背負って駐車場まで下りて来て、更に車が山道から田舎の舗装道に出るまで、僕はかなりの時間、気を失っていたはずだ。ちょっと眠っていたというレベルではない。下手をすれば、そのままあの世の人になっていたかもしれない。
「ああ、万が一の時には、警察へ行って自首しようと思っていたよ。」
 先生が冗談だか本気だか分からない神妙な顔つきで言った。
「できればその前に救急車を呼んでいただきたいです。」
 僕はため息交じりに返すと、先生が笑った。
「ああ、それは思い付かなかったな。」
 真っ先に思い付いてほしいことだが、今更だ。先生に人並みの常識など求めても仕方がない。
「先生。次のドライブイン、入ってください。運転、代わりますから。」
 僕は前方の標識を視界に入れ、先生に言った。
「そう? 助かるよ。」
 ふっと笑って、先生がウィンカーを点けないまま車線を変更した。がらがらの高速道路とは言え、危険過ぎる。
 先程からずっと、先生の左腕は身体の脇にだらりと垂れたままで、どうやら先生はまた無茶をしたらしい。
 正式な浄化の儀式には、いわゆる霊能力が必要だ。僕にはそれが全くないが、先生にはある。業界ではかなり高位の存在らしいが、強い力は強い反発力をも持つのが世の常だ。
 悪しきものに向かって放たれた力は、下手をすると術者に跳ね返る。
 余程のことがない限り命を奪われるようなダメージにはならないし、大概のダメージは数日で自然回復するらしいのだが、時に身体が動かなくなったり、正体不明の痛みに襲われたりするらしい。何がどういう仕組みでそうなるのか、術者でない僕には分からないが。
 たぶん、今回先生は左腕に何らかの反発を受けたのだろう。反発の直撃を受けて一週間寝込んだ前回に比べれば大したことはないレベルだ、とお人好しの先生は言うのだろう。
 前方に再び「P」の印を見つけると同時に、先生が急にハンドルを切る。後部座席の僕の身体が大きく右に振られた。
 元来、先生の運転技術は心許なく、それゆえ、調査の折には僕が毎回ハンドルを握っていたことを僕は思い出す。今まで自分の命が繋がっていたことがいかに奇跡的なことかは説明するまでもない。
「先生、危ない! 下手くそは安全運転しなきゃダメ!」
 ――全くだ。
 僕は、僕に寄りかかりながら声を上げた子供に黙って賛同しながら、体勢を立て直し……た?
「……!?」
 僕は目を見開いて目の前の緑色の子供を見た。
「ああ、やっと遠野君にも見えるようになったかい?」
「いや、あの……これって……。」
「河童のミズキ君だよ。だいぶ消耗しているようだったから、少しうちで療養してもらおうと思うんだ。あんな淀みに独りでいたら、また汚れちゃいそうでしょう? うちなら友達もいっぱいいるから淋しくないだろうと思って説得したんだ。」
 先生が運転席から楽しそうな声を飛ばして来るが、僕は目の前の河童を前に呆然とするほかない。
 ミズキ君という今風な名前が、河童自身の名乗ったものなのか、先生が名付けたものなのかは分からないが、水神を意味するミズチをもじったのだとすれば、それは先生の趣味に違いない。河童の由来には諸説あるが、水神の子だとか、水神が零落したものだとかいう説は有力だ。
「……普通の河童なんですね。黒くない。」
 研究者的思考を働かせるうちに落ち着きを取り戻した僕は、隣に座っている河童の子供――ミズキ君を見つめながら呟いた。
「僕の気を吹き込んだからね、だいぶ回復したみたいだ。」
 先生が運転席から答える。つまり、あの黒いヘドロの塊は、彼の本来の姿ではなかったということだ。もしかしたら、あれは焼けただれて煤けていただけなのかもしれない。
「僕に見えているってことは、結構強い存在ってことですよね?」
 僕はじっとミズキ君を見つめたまま先生に尋ねた。
「いや、彼自身の存在自体はかなり弱いと思うよ。今は僕の気で一時的に強くなってるけど。本当に強い存在なら、とっくに自力で回復しているだろうからね。」
「遠野君、怖い。」
 ミズキ君が震える声で言った。甲高い声は、公民館で聞いた蛙のような声とは違う。あの不気味な声は、炎で喉を焼かれていたせいかもしれない。
「え? あ、ごめん。怖がらせるつもりは……。」
 僕は慌ててミズキ君を見つめていた視線を逸らした。河童を間近に見るのは初めてで、ついまじまじと見つめてしまったのだが、ミズキ君は睨まれているように感じたのかもしれない。
「違うよ、遠野君。遠野君を怖がってるんじゃない、遠野君が怖がっていないか聞いてるんだ。」
「へ?」
 運転席からの先生の声に、僕は首を傾げた。
「ミズキ君は遠野君が自分を怖がるかと思って、ずっと気配を消してたんだよ。」
 先生に言われ、僕ははっとしてミズキ君を見た。
「遠野君、ミズキのこと、怖い?」
 緑色の顔についた青い瞳が不安げに僕を見上げている。本当に、まだ子供なのだ。
「……怖くないよ。」
 僕は微笑んでミズキ君に答えた。僕がこの目で直に超自然的な存在を見るのは、見るに堪えない禍々しいもの達を除けば、これが初めてだ。心優しい精霊の類は、存在が弱過ぎて僕にはまず視えないからだ。
 河童に関する話は、かつて曽祖母もよく僕にしてくれた。泳ぎの苦手な僕に、川遊びを諦めさせる方便でもあったのだろうが、好奇心旺盛な僕には、奇妙な緑色の子供は魅力的な存在で、一度会ってみたいとずっと思っていた。やっと、長年の夢の一つが叶ったことになる。
 僕の答えを聞いて、ミズキ君の表情がパアッと明るくなった。
「遠野君、キュウリあげる。」
 突然、ミズキ君はどこからともなくキュウリを取り出して、僕に差し出した。
「……へ?」
 戸惑う僕を、ミズキ君は純粋な瞳を輝かせて見つめる。
「あ、それ、すごく美味しいよ。さっき買ったんだ、県道に出たところでちょうど直売所を見つけて。新鮮朝採れキュウリ!」
 先生が運転席から嬉々とした声を上げる。
 美味しいと言うからには、先生も食べたのだろう。車の中で? キュウリ一本そのままで? 微妙だとは思いながらも、ミズキ君の期待のこもった視線に耐え切れず、僕は「ありがとう。」と言ってキュウリを受け取った。もろ味噌が出てくる気配もないので、仕方なく、そのまま齧る。
 ――まあ、普通のキュウリである。
「……うん、美味しいね。」
 僕は感想を待っているらしいミズキ君に答えた。ミズキ君は嬉しそうに破顔する。
 正直に言えば、ヘタの部分の食感が微妙な上に少し苦いのだけれど、車中に吐き出すわけにもいかず、僕はやむなくヘタごと飲み込んだ。窓の外に吐き出すって言うのも行儀が悪いし。
 窓の外を見上げると、綺麗な夏空が広がっている。
「いい天気ですね。」
 ぼんやりと呟くと、車が急停止して、僕は運転席に額をぶつけた。窓の外を覗くと、車はパーキングエリアの片隅に、駐車位置を示す白線を斜めに横切って停まっている。
「じゃあ、交代しよっか。」
 先生が嬉しそうに運転席を降りたが、僕はしばらく放心状態で後部座席に腰掛けていた。隣の大型トラックに追突しなかったことは、奇跡としか思えなかった。

【了】

*あとがき*
 こんな感じに…なりました。
 勢いのままに萌え要素を付け足し付け足ししたことが如実に分かるぐだぐだ構成で恐縮です。

 一応、「キタキタ」の作中設定と矛盾なく成立するよう努力したつもりですが(努力が実っているかは知らない)、石井さんがあとがきで触れていらした“ルール”と“キーワード”に言及できなかったことは少々心残りです。
 まあ、「キタキタ」の設定を拝借しつつも私の勝手な妄想設定がベースなので、あとがきで説明された詳細設定はほとんどフォローできず、「ルール」と「キーワード」だけ採用するのは無茶な芸当なのですが。

 しかし、何はともあれ、『エウレールの森の民』の連載の傍ら勢いだけで約3日間のうちにスマホで完成させた本作は、遅筆な私に「やればできる!」という希望を与えてくれました。
 「キタキタ」という素敵な怪異を提示してくださった石井さん、本当にありがとうございました! そして、明るい(怖くない)ホラーが読みたい談議で「怪異もの書きたい!」という私の心の薪に火を付けてくれた碓地さん、いなだ詩穂先生情報(『悪魔の棲む家』(小野不由美)コミカライズ)で私に更なる燃料が注がれるきっかけを与えてくれたmoesさんも、ありがとうございました!
 また、覆面企画TLでの私の戯言に対し、「カッパ編も気になります」とコメントをくださった冬木洋子さんをはじめ、生暖かく(?)見守ってくださった皆様にも感謝しております。
 私が調子に乗ってこんな一万字超の物語を書いてしまったのは、全て皆様のせい…いえ、皆様のおかげです! 本当にありがとうございました!
 そして……ごめんなさい!(逃亡)
 
 ……あ、そうそう(逃亡を諦めて戻って来たようです)、本作中の私のオリジナルな登場人物である先生と遠野君には、別のオリジナル怪異ネタと共に、短編連作シリーズで活躍してもらおうと画策中です。
 シリーズ化に当たっては、設定が変わる部分もあると思われ、基本的に本作とは別扱いのお話にはなりますが、無事に完成した暁には、またお付き合い頂けたりなんかすると嬉しいです。(ちゃっかり宣伝する程度には反省していない)
posted by 桐生 at 23:47| 覆面作家企画6